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100歳まで絶えなかった知的探求心。女性探検家アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール

100歳まで絶えなかった知的探求心。女性探検家アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール

子どものころ、ファンタジーや冒険物語を読み、未知の世界に憧れた人は多いでしょう。けれども、大人になって、実際に冒険に出る人は、ほんの一握りどころか、ひとつまみもいません。

歴史に残るそのひとつまみの人びと、危険をかえりみず、未知の世界へ旅した探検家、旅行家といえば、西はマルコ・ポーロやクリストファー・コロンブス、東は玄奘三蔵、鄭和(ていわ)らの名が頭に浮かびます。

その多くは男性ですが、わずかに足跡を残した女性のなかに、東洋と縁の深いAlexandra David-Néel(アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール)がいました。

ラサに滞在した最初のヨーロッパ人女性

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アレクサンドラとヨンデン(左)とシッキムのマハラジャ(腕組みをしている人物)、1914年9月、標高5150mのタンチュン峠麓にてCrédit photo : Maison Alexandra David-Neel © Ville de Digne-les-Bains

アレクサンドラが、一番長くアジアに滞在したのは、1911年から1925年までの14年です。

ダライ・ラマ13世やパンチェン・ラマとの出会いに彩られた旅でしたが、チベット仏教の大本山ラサにようやくたどり着いたのは、1924年、スリランカ、インド、日本、韓国、中国などを巡ったのちのことでした。

外国人のラサ入境は難しかったため、乞食に扮した8か月間。厳しい気候のなか、地理的にも難しい道のりを辿る巡礼でした。

いったい何が彼女を困難な旅に駆り立てのか?

アレクサンドラは、その著作『L'Inde où j'ai vécu(私の生きたインド)』の序で、Jules Verne(ジュール・ヴェルヌ)の冒険小説を読み、旅に憧れた子ども時代について記していますが、旅そのものへの憧れだけでは、彼女の熱意は説明できないように思います。

おそらく、20代のころみずから改宗した仏教の奥義を極め、理解したいという知的探求心のなせる業だったのではないでしょうか。

わずかに残る当時の写真は、アレクサンドラの毅然とした表情、強い意志を感じさせる眼差しを捉えていて、この推測を裏付けるものに見えます。

多くの顔を持つ女性

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オペラ歌手衣装を身につけたアレクサンドラCrédit photo : Maison Alexandra David-Neel © Ville de Digne-les-Bains

アレクサンドラの生まれは、1868年パリ郊外。若い時分は、無政府主義やフェミニズムに共鳴し、精力的に活動したこともありました。20代後半から30代にかけては、プロのオペラ歌手として、ヨーロッパから、北アフリカ、アジアで公演。その一方で、サンスクリットやチベット語も習得したポリグロットでもあります。

上述の14年に及ぶ旅のあと1925年フランスに戻ってからは、南仏の町ディーニュ・レ・バンで、執筆活動と講演に専心する12年を送り、東洋学者、チベット学者、ジャーナリスト、作家としても、高く評価されるようになります。

しかしながら、そこで終わらないのがアレクサンドラのアレクサンドラたる所以(ゆえん)です。1937年、69歳のときには、再び中国を目指して旅に出るのです。旅程はシベリア経由。その目的は、道教を学ぶことでした

この旅行は、折悪しく日中戦争の時期に重なり、アレクサンドラは戦禍を避けて、中国国内を移動し続け、苦労することになります。インド経由でフランスへ戻ったのは、9年後の1946年、78歳のときでした。

その後はフランスで執筆活動を続け、結果としてヨーロッパから出ることはありませんでしたが、100歳を越えてなお、パスポート更新の手続きをしたといいますから驚きです。

アレクサンドラを支え続けた夫フィリップ

知的好奇心の赴くまま生きたように見えるアレクサンドラですが、その人生には、彼女を支え、導く人びとも多く登場しました。

とくに、忘れてはならないのが、その夫フィリップ・ネールです。

出会いは1900年、オペラ歌手をしていたアレクサンドラが、公演のため訪れたチュニジアでのこと。結婚したのは4年後の1904年、アレクサンドラが36歳のときです。

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1926年3月30日夫フィリップにあてた自筆の手紙一部

上述の通り、アレクサンドラは、1911年から14年におよぶ旅に出ますから、フィリップとの結婚生活は、最初の7年以外は、ほとんど離れて暮らした計算になります。それにもかかわらず、長い別居生活の間も、フィリップは、経済的、精神的にアレクサンドラを支え続けました。アレクサンドラとフィリップが交わした書簡も多く残っています。

たとえ、ともに旅路を歩いたわけではなくとも、フィリップはアレクサンドラの最大の理解者だったのでしょう。

天啓を受けた場所での展覧会

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ギメ美術館の女神像の並ぶ回廊(アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール展の会場)

アレクサンドラの執筆の場となったディーニュ・レ・バンの家は、現在博物館となっていて、ダライ・ラマ14世も何度か訪れています。

一方、アレクサンドラが、インドのシッキムやチベットから持ち帰った資料は、パリのギメ東洋美術館に託されています。

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仏陀(18世紀チベット)Crédit photo : RMN-Grand Palais (musée Guimet, Paris) © Michel Urtado

これら両館に残る資料を集め、現在ギメ東洋美術館では、『Alexandra DAVID-NÉEL Une aventurière au Musée(アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール 美術館の女性探検家)』展(2017年2月22日~5月22日)を開催しています。

著作『L'Inde où j'ai vécu(私の生きたインド)』のなかで、アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールは、1889年のギメ美術館パリ開館まもないころ、ここを初めて訪れたときのことを記しています。

「ギメ美術館の薄暗い回廊に君臨する女神たちの謎めいた表情」に囲まれたと語るアレクサンドラ。(ギメ美術館を)神殿のように捉えていた彼女は、ここで仏教に目覚めたのです。

「ギメ東洋美術館アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール展プレスリリース」より翻訳引用

つまり、ギメ東洋美術館は、アレクサンドラがその波瀾に富んだ一生を送るきっかけとなった因縁の場所でもあるわけです。

立ち止まることを知らないように見えたアレクサンドラが、ようやく歩を止めたのは、1969年9月8日。満101歳まであと一月半という日でした。

アレクサンドラの著作は、死後出版された書簡集なども加えると30冊以上。いまだ途絶えることなく読み続けられています。

アレクサンドラについて書かれた本も少なからず出版されており、彼女を題材とした映画や劇も発表されています。また、有名な紅茶専門店『Mariage Frères(マリアージュ フレール)』には、アレクサンドラにインスピレーションを受けてつくりだしたスパイシーな紅茶「アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール」が存在します。

知的で勇敢なパイオニアであったアレクサンドラ。彼女の人生を俯瞰して感じたのは、人間、その気になれば、死ぬまで探求心を持ち続けられるのだということ。

亡くなってなお、現代の私たちに大きな勇気を与えてくれるアレクサンドラ・ダヴィッド=ネール。日本の人にも知ってもらいたい人物です。

ギメ東洋美術館アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール展, Maison Alexandra David-Néel (アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールの家), マリアージュ フレール

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冠ゆき
山田流箏曲名取。1994年より渡仏。大学院での研究の傍ら、国立大学や専門学校で日本語日本文化講師を勤める。2000年より、ポーランド五年、イタリア三年半、中国四年半の生活を経た後、2013年夏フランスに戻る。旅好きでもあり、今までに訪れた国は約40カ国。六ヶ国語を解する。多様な文化に身をおいてきた経験を生かして、柔軟かつ相対的視点から、フランスのあれこれを切り取り日本に紹介中。

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