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ドキュメンタリー映画が映し出す、この世界というもの

性革命が私たちにもたらしたダブルバインド/『フリーセックス—真の自由とは?—』濱野ちひろ

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ノンフィクションライターの濱野ちひろさんが解説する「ドキュメンタリー映画が映し出す、この世界というもの」。第2回はアメリカの大学生を中心として流行しているという“フックアップ・カルチャー”を追った『フリーセックス —真の自由とは?—』について。

私たちはいま、セクシュアリティに関する大変革期を生きている。

現在は、LGBTQへの認知や理解が進み、性的多様性に対し寛容な社会が作られようとしている段階だ。性の抑圧に対する抗議運動にはすでに一世紀余りの歴史がある。最初期段階は1860年代のドイツ語圏で起きた。当時は男性同性愛に関する擁護運動だった。非常にざっくりとした説明にはなるが、その後、欧米圏を中心に同性愛解放運動や性解放運動が展開されていく。

運動のなかで、非異性愛的なセクシュアリティだけではなく、異性愛のセクシュアリティも当然ながらテーマとなってきた。詳しくは後述するが、特に1960年代以降、女性の性をどう捉えるのかということは、とても大きな問題として考えられるようになる。

私たちはいま、その後の時代にいる。性的多様性についての議論が充実するのは本当に素晴らしい。だがあえて言うなら、今度は異性愛についての議論が不足しつつあるような印象を個人的には受けている。

今回は、異性愛社会における性の問題、私たちが見落としそうになっている点について考えるきっかけとなった映画を取り上げる。描かれているのは一部の異性愛者たちが身を置く2017年現在の状況なのだが、実際のところそれは旧態依然として、なにも進歩してないのではとさえ思えるものだった。

身体そのもの、性やセクシュアリティ、セックスという行為についての見解や取り扱い方があまりに乱雑な現実に、私は悲しくなった。

セクシズムが露呈する若者たちの無防備な本音

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このドキュメンタリー映画に登場する一部の人物たちによる、ある種の発言に対して、強い怒りを感じずにはいられなかったことをまず断っておきたい。言うまでもないが、すべての異性愛者の男性や女性がこのような言動をしているとは、私は露とも思っていない。私の怒りはあくまで、本作に登場する一部の人々に向けられている。そして、このような怒りを引き出すことが出来ているのだから、この作品は優れた力を持っている

本作は現代のアメリカの大学生を中心として流行しているという“フックアップ・カルチャー/ hook up culture”を題材とする。どのようなものなのか簡単に説明すると、「セックスを極めてカジュアルなものとして捉える動き」といえばよいだろうか。彼らは出会ってすぐにセックスにもつれ込み、一晩限り、あるいはその場限りの関係を持つ。

本作は、春休みに全米から大学生が集まるフロリダ・パナマシティのビーチ、そしてメキシコ・カンクンのビーチを主な取材先として、フックアップ・カルチャーの実態に迫っていく。三部構成になっていて、第一部は男子学生に焦点が置かれる。第二部では女子学生を追い、第三部では性暴力の問題を取り上げる。

本作は、当事者たちから無防備な本音をふんだんに引き出している点で秀作だ。収録されている男性たちの発言の一部は、醜悪なセクシズムに満ちている。また、それを言い放つ際の表情も情景も、あまりにもリアルで、私は怒りを抑えられない。その怒りを鎮めてくれるような、親切でハッピーな演出は、映画の終盤になっても一切なされないことも書き加えておこう。

見終えてしばらくは、本作の副題である「新しい性革命/The New Sexual Revolution」という言葉について考え込んだ。いったいこれを“新しい性革命”といえるのか。

1960年代の性革命がもたらしたダブルバインド

本作について話を進めてしまう前に、まず、「性革命/sexual revolution」について整理したいと思う。

性革命とは、1960年代にアメリカとヨーロッパで始まった性や性行動についての解放運動を指す。当時隆盛したカウンターカルチャーと結びつくかたちで、若者たちを中心にセックスに対する新しい解釈と実践行動が生まれた。セクシュアリティにまつわる様々な社会規範や道徳観念、性差に基づくある種の思い込みなどに対して、彼らは挑戦していたといえる。

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たとえば、「婚前交渉はしてはいけない」「女性は子どもを産み育てるために生きるべきで、セックスは生殖のために夫とのみするべき」「男性のほうが女性よりも性欲が強く、女性は男性を受け入れる側」といったそれまでの常識を、実践をともないつつ覆していこうとしたのだ。

この動きを支えたのが、経口避妊薬(ピル)の普及だった。女性が自分自身で妊娠を管理できるようになったことで、性行為に対する選択肢が増えることになった。妊娠についての主導権を男性が握っていた頃には考えられなかったことだ。女性たちはこのとき、自分の身体をコントロールする力をついに手にすることができた。

セックスの場面で、また、セックスから生じるその後のいろいろな局面で、女性が主体性を持つ可能性が増えたことは明らかに素晴らしいことだった。しかし、残念ながら性革命によって私たちのセクシュアリティにユートピアが訪れたわけではなかった。

1960年代から70年代の時点で、すでに多くの女性たちが、性革命以後の価値観が生み出すダブルバインドに苦しむことになってしまっていた。女性にも性の自由と決定権があり、望まない妊娠からはピルによって解放されているという状態は、逆に「男性とそっくり同じように、男性と“対等”に、いつでも女性はセックスがしたい/していい/するべきだ」という言説を生んでしまったのだ。

進歩的な女性ほど、そして男性と本当の意味で対等に渡り合いたかった女性ほど、きっとこのダブルバインドに苦しんだのではないかと私は想像する。彼女たちは理想と現実に引き裂かれながら、なんとなくノーといえずに、「セックスをしない自由」を手放すことになってしまった。

1960年代の性革命が成し遂げたことは数多いと私は思う。女性の性に対する新しい価値観の普及は、女性の性的自立だけでなく、経済的自立、社会的自立へと繋がっていき、現代に生きる女性の立ち位置を作る基盤となってくれた。しかし、1960年代の性革命は、いまだに解決されていない課題も残していて、その筆頭は性的同意の問題だと私は思う。

セックス=男らしさと考える男性たち

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以上を踏まえて、改めて本作で描き出される現代アメリカのフックアップ・カルチャーを見ていこう。私が特に冷静ではいられなかったのは、第一部に登場するある男性たちの発言や行動の数々だ。

大学生の男性たちはグループ行動し、ビーチやクラブに行っては酒を飲み、女性たちに声を掛ける。もちろんセックスに誘うのが目的である。ある男性は言う。「セックスなんて簡単さ。(女の子の電話)番号をゲットしたら、あとはヤるだけだよ」。彼らにとって個々の女性には名前すらなく、もはや番号でしかないようだが、それについても悪びれる様子はない。

「きみにとって、セックスってなに?」というインタビュアーからの質問に、男性たちは笑いながら「数だな」と答える。数分で女性を口説き落とし、部屋に連れ込んで、短時間で出てくると「いい子だったよ」と褒めながらも、その女性の名前は覚えていない。男同士で酒を飲みつつ、何人とセックスしたかを競い合う。

男友達が酔っ払うベランダのすぐ傍、窓を閉めただけの部屋でセックスをするのは、「俺はお前たちよりも男らしい」とマウントする意味もあるだろうし、また、「セックスを目の前でできるくらいに、お前たちとは仲がいい」と絆を深める意味もあるだろう。

実際、彼らはセックスする短時間の間しか女性とはかかわらず、あとは男性同士でずっとつるんでいる。目当ての女性に電話をするときもスピーカー通話にして、全員でニヤニヤしながらやりとりをする。春休みにビーチで出会いセックスした女性たちには二度と連絡をとらないと話す一方で、ここで知り合った男友達とは今後も付き合うかな、という言葉もあった。

彼らの行動は、「たくさんの女性とセックスすればするほど、男らしさや男としての価値が上がる」「男らしさは男同士の社会のなかで賞賛される」という価値観に基づいている。

セックスに至るまでに、女性とのあいだで感情のやりとりはない。女性は数であって人格ではないので、感情的なケアといった面倒な手続きはすっ飛ばしたい。そしてそれを叶えてくれる彼らにとっての夢の場所が、春休みのビーチなのである。

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求められること=合格と感じる女性たち

本作が捉える、一部の男性たちによる男性性の誇示のためのフックアップ・カルチャーには、私は批判的にならざるを得ない。しかしこのような現象は、そこに女性たちがいるから成り立っているのも事実だ。ある種の男性たちが形作るいびつな男性社会を批判するだけでは何が起きているのかを捉えることにはならない。なにしろ男性たちは自信満々に言うのだ。「女の子もノリノリだよ」と。

本作の第二部に登場する主な女性はたった二人ではあるが、彼女たちの証言を通して、少し考えてみよう。

大学生で友達同士だという二人は、「一度ははじけてみたいから」とビーチリゾートに来たという。満面の笑みで、これから何が起きるのか期待している様子だ。「今夜は何をするの?」と尋ねるインタビュアーにはこう答える。「明確な目標はないけど、何か楽しいことがあれば積極的に参加しようと思う」。

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踊りに行くことにワクワクしながら、しかし、「お酒に薬を盛られるのが怖い。気にしすぎかな? グラスに手で蓋をしながら踊ったりしたくない、安心して踊りたいのよ」という会話もなされる。

つまり彼女たちは、自分たちの安全が保障されてはいないこと、危険な状況に巻き込まれうることをあらかじめ理解している。その上で、人混みの中へ繰り出していく。そして彼女たちは、あるイベント会場でダンスコンテストに出場するのだが、ステージで司会者に「もっと腰を振って」とか「脱いで」などと煽られる。

後日、その経験を振り返りながら、そのとき本当はなにを感じ、どう思っていたのかを打ち明ける場面になると、彼女たちはついに涙を流し始めてしまう。「人生の縮図のようだったわ。私たちはいつも比較されて、辱められている」。

さて、彼女たちの行動を「浅はかだ」「最初からそんな場所に近づかなければいい」と言って突き放すのは簡単だ。だが私がいま考えたいのは、女性として生きる際の危険回避の方法についてではなく、一体なぜ彼女たちが危険性を理解していてもなお、魅了されて抗えずに“フックアップ・カルチャー”に近づくのか、そしてなぜ傷ついて帰ってくるのかという点だ。

ある女性は言う。「ステージで踊ってみんなの注目を浴びると、ハッピーだし、力を得た感じがする」。「もの凄い数の男が寄ってきて、主役になれた気がする」。

求められたい、欲望されたい、認められたい。彼女たちの行動の底にあるのは、承認欲求だ。彼女たちにとって、セックスは他人から「合格」という評価をもらうための取引だ。だから、セックスを求められて断る理由は、彼女たちにはなかなか見当たらない。強すぎる承認欲求に絡め取られているからだし、もうひとつ、1960年代の性革命以後のダブルバインドを生きている世代だからでもある。

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男性支配的な社会にいる男女がセックスに求めること

本作が「新しい性革命」と呼ぶフックアップ・カルチャーには、まったく新しさは見受けられない。男性は、とても古典的な「男らしさ」を追い求めているだけで、その実現のために女性を性的対象としている。いっぽう女性は、承認欲求に突き動かされて、かりそめの満足感のために性的存在としての自分をアピールする。

ここで男性側と女性側には異なる論理が働いているが、両者の利害がときにマッチしてしまうのは、旧態依然とした男性支配的構造のなかではありふれたことである。そしてそのような場所では、性的同意の議論が解決されにくいばかりか、いっそう複雑化する。

本作が捉える状況では、男性であれ女性であれ、支配者としての強い男とか、欲望されるセクシーな女といった虚像を追い求めてセックスをしている。彼らにとってセックスは手段なので、それ自体に意味を感じないのは当たり前のことだろう。

私は、セックスと感情は常に結びつけられるべきだとは決して思っていない。しかし、かといって、セックスと感情はいつも完全に切り分けられるはずがないのもわかっている。60年前の性革命の時点で、セックスは感情とは別物だとして、「人々はいつでも誰とでも純粋な肉体的喜びのためのセックスをするべきだ」という主張がすでにあった。本作に登場する人々も、相変わらず似たことを主張しているが、私はそこには鈍感さしか感じない

彼らはいったい、身体が呼び覚ます感情というものについて考えたことがあるのだろうか。社会における虚像を追い求めるだけで、自分自身の本当の身体や心に対する思考は放棄するのだろうか。

自分のセクシュアリティを自分で生きる

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最後に、このドキュメンタリー映画は「アメリカの若者たちの乱痴気騒ぎの話で、私たちとは直接関係ない話」だとは、私には思えない。なぜならば、彼らが行っていることは、男性支配的な社会における男女の性的な関わりを極端な形で示してみせることだからだ。ここまでの状況には陥っていなくとも、似たようなことを経験したことがある人は少なくないのではないか。

たとえば、好意をある程度以上持っている男性から「セックスをするのは悪いことじゃないし、お互い好きなら、問題ないはず」と言われ、「好きではあるが、したくはない」という、もやもやした本音を言えない状態に陥ったことはないだろうか。性的に求められることと、人間として認められることに、いつも明確な違いを引けるだろうか。異性にもてることが自信になり、自分の価値のひとつであると感じることはないだろうか。そういった感覚は一体どこから来るのか、考えてみることも大事だ。

自分の身体や心を掴みなおし、自分のセクシュアリティを自分で生きてみることが、いまの私たちには必要なのだと私は思っている。そのために何ができるのか。私自身、模索している段階だから、明確な答えはまだない。だが、セクシュアリティの変革期にあるいまだからこそ、なにかができるはずだという希望はいまのところ持っている。

フリーセックス -真の自由とは?-

原題 Liberated: The New Sexual Revolution/2017年・アメリカ/配信NETFLIX

文/濱野ちひろ

人は「男」にも「女」にもならなくていい/『男らしさという名の仮面』濱野ちひろ

ノンフィクションライターの濱野ちひろさんが解説する「ドキュメンタリー映画が映し出す、この世界というもの」。第1回は男性像の固定概念に影響されるアメリ...

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濱野ちひろ
ノンフィクションライター
1977年、広島県生まれ。2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。2018年、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。現在、同大学大学院博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。2019年、『聖なるズー』(集英社)で開高健ノンフィクション賞受賞。2020年、同書で大宅壮一ノンフィクション賞及び講談社本田靖春ノンフィクション賞候補、2020年ノンフィクション本大賞ノミネート。https://chihirohamano.jp/ (写真/小田駿一)

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