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私を語る、私だけの言語を探して/イギル・ボラ×温又柔

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2021年1月、韓国出身の映画監督・作家であるイギル・ボラのエッセイ『きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる』(リトルモア)の翻訳出版を記念して、作家の温又柔(おん・ゆうじゅう)とのトークイベント「私の言語を探して―手話と音声言語、中国語と台湾語と日本語の間に生きる―」が開催された。

唇の代わりに手で話す「ろう者」の両親のもとに生まれ育ったイギル・ボラは、聴者として幼い頃から両親の「通訳」をつとめ、「聴こえる世界」と「聴こえない世界」の橋渡しをしてきた。2011年、21歳の時に自分が「コーダ(CODA, Children of Deaf Adults)」と呼ばれる存在だと知った彼女は、自分が重ねてきた経験を伝えるために、ドキュメンタリー映画『きらめく拍手の音』を撮り、同名のエッセイを書き始めたという。その道のりは「自分だけの言語で自分を説明する方法」を探す旅だったと、エッセイのなかで振り返る。

対談相手として招かれた作家の温又柔氏は、台湾・台北市の出身。3歳の時に家族と東京に引っ越し、台湾語混じりの中国語を話す両親に育てられた。2020年8月に出版された新著『魯肉飯のさえずり』では、台湾人の母と日本人の父を持つ新婚の女性を主人公に、母娘のすれ違いや日本人の夫に感じるジェンダーギャップの問題を描いている

異なる文化の間を旅しながら、「私は何者か?」という問いの答えを探してきた2人。その対話の模様をお届けする。

複数の文化を行き来しながら育った2人

温又柔(以下、温):ボラさんが『きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる』で書かれたことは、ただ単に聴こえる人と聴こえない人が行き来する物語、というだけにとどまらない。私自身も共感したというか、すごく重なるところがあったんです。

私は3歳で日本に来たのですが、幼稚園では日本語しか通じなくて。当時は言語の区別がつかないから、単純に家のなかで通じる言葉と、家の外で通じる言葉があるのだと思い、その2つの世界を行き来しながら育ちました。だから今日は、複数の文化を最初から生きなくてはならなかった子ども同士としてお話ができたらと思っています。

イギル・ボラ(以下、イギル):温さんは著書のなかで「台湾の人なのに中国語ができるの?」とか、「台湾人はみんな台湾語が話せるの?」とか、何度も聞かれたと書いていましたね。

じつは私も似たような質問を、子どものころから浴びるように受けてきたのです。「ご両親はどれくらい聴こえないの?」とか、「聴こえないフリをしているんじゃない?」と言われたこともありました。

それは障害に対する偏見であると同時に、「違う文化に対して閉ざされた世界がある」ということを語っていたのではないかと思います。韓国社会と日本社会のみならず、この地球上で人間が生きていくために作る社会のなかでは、多様性がもっと増していく必要があるのではないでしょうか。

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「どうして」に答えることは、マイノリティの義務なのか

温:私は子どものときから「自分には説明する義務がある」と思い込んで生きてきたような気がします。自分の経験を他者と分かち合うために話す、その喜びは確かにある。一方で、人と少し違うことを経験してきた自分が、マイノリティとして他の人に伝え続けることを求められる現実に、たまに本当に疲れることがあるんです。

イギル:私もよく「ろう者に会ったらどうすべきか」と聞かれます。私が思うのは、ろう者は障害者ではなく、聴者とは異なる言語を使う少数民族であるということ。手話ができなくてもスマートフォンのメモ機能を使えば簡単に筆談ができますし、彼らの言語と文化を尊重することが、基本的に持つべき心構えだと考えています。

ただ、そろそろこうしたやり取りはしなくてもいい時期に来ているのではないかとも思うのです。多数の方は「どうして」という善良な質問をたくさんしますよね。でも、質問を受けるマイノリティは必ず答えなければいけないという、社会の力関係がある

温:本当に。マイノリティとして話をさせてもらえる権利と、説明する義務がきれいに切り離せるとは、私も思っていないのですが……。同じことを書き続けると、自己の縮小再生産になってしまう。表現者として新たな創作をしたい気持ちと、自分の違和感を伝えることで、多様性のある社会への道をひらきたいという気持ちを、どう切り分けたらいいのか。ここ1~2年、すごく感じていたことなので、ボラさんも同じ葛藤があったと知って、とても励まされました。

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「唯一」ではあるが「代表」ではない

イギル:その点は本当に大事なことです。私の場合は、社会がコーダを認知してくれなければ、コーダとして同じことを繰り返し話すことになります。本当はコーダのなかにも多様性があって、色々なアイデンティティがあるのに……。

温:本のなかでボラさんが、お父様とアメリカで開催される「デフ・ワールド・エキスポ(ろう者の国際大会)」に参加する話がありましたね。韓国から参加するのは自分たちだけなので、お父様は「韓国代表だ」と思っている。でもボラさんは、「父は『代表』と『唯一』を時々混同することがあった」と書いています。

これは私のなかでも、代表と唯一を間違えてしまいそうになる時があるなと感じていて。自分の経験は自分しか経験していない、そういう意味では唯一の存在ではあるけれど、自分と同じ属性の人を代表することはできない。自分は自分のことしか代表できないんですよね。

イギル:ろう者のなかでも手話を使う人もいるし、口で喋る人もいる。両親がろう者だからという理由で、祖父母や親戚に育てられた聴者の子もいます。その経験はさまざまで、私の経験が必ずしもコーダを代表しているとは言えません。

だから、それぞれのアイデンティティをもっと話し合ったり、たくさんの文章で表現できたらいいですよね。そうすることで「あの人はこうだけど、自分はこうなんだ」とか、「似ているけれど、完全に同じではない」ということもわかるわけです。それは韓国の人も、日本の人も、フランスの人も同じです。

そう考えると、国籍や性別や地域では、アイデンティティというものは作れないものだと思います。

温:自分の在り方は、自分だけが抱えているわけではない。それを知った上で、自分も自分だけの道を探ることができる。ボラさんの本は、そのことを示唆してくれています。

私がボラさんの文章を読んで直感したのは、この書き手はたとえコーダでなくても表現者だったろうな、ということ。表現者としての感受性と、社会的なテーマが本当に溶け合っていて、そのなかで彼女は自分自身の言葉を探している。コーダの物語という以上に、自分が抱えるこの世界をどう表現するかというボラさんの奮闘を、日本の読者が受け止められるといいなと感じました。

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きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる

著者:イギル・ボラ
翻訳:矢澤 浩子
出版社:リトルモア
定価:1980円 (税込)

取材協力/代官山 蔦屋書店

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田邉愛理
ライター。学習院大学卒業後、センチュリーミュージアム学芸員、美術展音声ガイドの制作を経て独立。40代を迎えてヘルスケアとソーシャルグッドの重要性に目覚め、ライフスタイル、アート、SDGsの取り組みなど幅広いジャンルでインタビュー記事や書籍の紹介などを手がける。

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