撮影:中山実華
人生で「私はこれをやるために生まれてきたんだ」と思ったことがあるだろうか。中山薫子(なかやま・かおる)さんには今から26年前、その瞬間が訪れた。それは「パラアスリートと小学生の交流」だった。
26歳、選んだ道はアメリカの大学進学と現地就職
といっても、中山さんがそこに簡単に行き着いたわけではない。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。紆余曲折を経たからこそ、たどり着けたのかもしれない。
1958年、千葉県柏市出身。今でも活動の拠点は柏市に置いている。「大学にどこにも受からなくて」友人に勧められた英語の専門学校に通う。「すでにほとんどの科は定員オーバーで、唯一空いていたのがホテル科だったんです」。でも、ここで学んだことがその後10年ほどの人生の方向になるのだから、どこに縁があるかわからない。
学校を出たあと23歳で結婚、札幌に移ってホテルで働き続けた。3年で離婚。26歳だった。「これからどうしよう。で、思ったんです、これからの女は学歴だ、って。といっても「18歳から遠く離れちゃって、日本の大学に行くのはもう遅すぎる。アメリカなら大丈夫かも、そうだ、アメリカに行こう」。中山さんは何かにせきたてられるようにして渡米。ペンシルバニアにある大学のホテル科を卒業後、91年に日本人であることを生かせるホテルで働くためにニューヨークへ。一流ホテルのフロントで一年働いたあと、旅行会社などを経てフリーのガイド、通訳として独立。日本経済のバブルはすでに崩壊していたが、ニューヨークを訪れる日本人は多かった。
「NYでフリーの通訳」。キラキラとかっこいい響き。実際、社交的できめ細かく面倒見のいい中山さんには多くのリピーターもつき、日々忙しく充実していた。2年ほどそうやって過ごした96年。アトランタ五輪が開催され、中山さんも仕事でアトランタに出かける。
パラリンピックとの出合い。アスリートが子どもたちにもたらす好影響
NPO法人パラキャン 事務局長 中山薫子さん
撮影:中山実華
そこで初めて目にしたのが「パラリンピック」だった。
「たまたま車いすバスケの最終盤を目にして。最後の1分くらいだったんですが、車いすが体育館の中を流れるように動いていて。あれ? 車いすってこんなにかっこよかったっけ? きれいだったっけ?」
感動した中山さんはこれを日本の子どもたちに見せたいと思い始める。「当時日本のニュースといえば、日本の子どもたちがいじめを苦にして自殺した、みたいなものが多くて。なんで死んじゃうんだろう? あのパラリンピアンと会ったら、いじめもなくなるのでは? って思ったんです。しかも阪神大震災が起きたばかりで。神戸の子どもたちに会わせたい、って」。中山さんは何かに突き動かされるように行動し始めた。
NYに戻ると、仲間たちに「神戸出身の人、いない?」。すると「うちのママが神戸で民生委員だよっていう友人がいて」。そこから縁が広がり、神戸市の教育委員会につながった。
「教育委員会に話を持ちかけたら、『いいですよ、お金ないですけど』。ま、いいか、一回やれば気が済むよねと思って。持ち出しだったけど気にしませんでした」
パラキャンの活動の一風景。パラキャンでは、障がい者スポーツをモチーフにした教育・体験プログラムを企画運営している。
画像提供:パラキャン
とにかく一度やってみたい、パラアスリートと子どもたちが出会ったら、どんな化学変化が起きるのか見てみたい──。そして97年5月2日、神戸市の有野台小学校で「そのとき」を迎えた。
片脚を切断して車いすに乗ったバスケット選手が45分の授業を受け持った。子ども2、3人を車いすに乗せて体験してもらった後、子どもたちが見守る中で選手によるバスケの実演が始まる。リズミカルにドリブルしながらスムーズにコートを進み勢いよくシュート、外れたけれどもすかさずリバウンドを取って、今度はナイスシュート!! わあ、と歓声が上がる。
「私の目からウロコが落ちる音が聞こえたんです。子どもたちの目の色、輝きが全然違う。それはもうぴかぴかして光を放っていたんですね。すごいものを見た、っていう。するとね、その光が選手にまた吸収されてさらに倍加して光を放って、それをまた子どもたちが……っていう、ものすごいエネルギーの循環がそこに生まれていたんです」
日本で団体設立、見つけた自分の生きがい
撮影:中山実華
そこで中山さんは、いわば自分の生きる意味を見いだす。「私、これをやって暮らしていこう。これまでNYで楽しくやっていたけど、生きている感じがあまりなかった。NYで仕事をしているんだ、へー、すごいねーってみんなに言われて。お金をもらってヴィトン、エルメスを買っても満たされない。私はこれからどうするんだろう? っていう思いが漠然とあったんです」
97年に日本に帰国し、翌年任意団体の「パラリンピック・キャラバン」を立ち上げた。2009年にはNPO法人化し、2015年には「パラキャン」に改称。事業はもちろん、パラアスリート数人が小学校を訪問し、車いすバスケットを実演しながら子どもたちと交流すること。
流れはこんなふうだ。まずはパラアスリートが自己紹介をして車いすの説明。車いすにも日常用、スポーツ用などいろいろあること。たとえば靴だって野球の時はスパイクだし、ビーチではサンダルと、使い分けるように。それから実演してみせて、その後はグループに分かれて子どもたちとお話をする。どうして車いすを使うようになったの? 日常困ることは? 車いすバスケって何が楽しいの? アスリートは子どもたちの質問にあれこれ答える。最後に子どもたちは振り返りつつ、感想を記す。90分のプログラムが多い。
真剣にアスリートの話を聞くこどもたち
画像提供:パラキャン
子どもたちからは寄せられた感想は、たとえば「私は何をやってもダメだとあきらめていたけど、これからは何かをやってみようと思う」「家族に障害者がいるけれど、その人もスポーツができるかと思うとうれしくなった」……。
もちろん、事業はずっと順調だった、わけではない。初期の頃は中山さんが友人の子どもの家庭教師をしてしのいだ。今は各種の助成金が主な収入源だ。「でも、ああもうお金が尽きる、この助成金が取れなかったらもう終わり、辞めるしかない、っていう状況になると不思議と取れるんです。友人にも事務局を手伝ってもらったり、ずいぶん助けられました」
大人の教育を変えたい。見据える先には助け合える社会の構築
撮影:中山実華
プログラムは必ず、このキャッチフレーズを全員で唱えて終わる。
「できないことを数えるより、できることを数えよう」。
この言葉は、パラリンピックの創始者とされるルートヴィヒ・グッドマン博士の「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」から来ている。
中山さんが、この事業をやり続けて感じるようになったことがある。
「日本は車いすで生きにくい社会。たとえば、お店が入りにくかったり、移動しづらかったりする。それって障害者が悪いんでしょうか? そうじゃない。そうなっている社会のほうがおかしいわけで。個人の問題じゃなくて、まちの問題、社会の問題ですよね」
これからやりたいのは大人の教育だ。「子どもにせっかく教えても、大人に上書きされちゃうことがあるんです。大人を変えたい。お互い助け合おうよ、補い合おうよ、自分だけ我慢すればいい、ではなくて、大変大変って言えて、少しずつ助け合える社会にする。そうしたら、もっともっと世の中は生きやすくなると思うんです」
中山さんの目は常に前を見据えて輝いている。初めてパラアスリートを見た子どもたちの目のように。

イベント
おすすめ
JOIN US
MASHING UP会員になると
Mail Magazine
新着記事をお届けするほか、
会員限定のイベント割引チケットのご案内も。
Well-being Forum
DE&I、ESGの動向をキャッチアップできるオリジナル動画コンテンツ、
オンラインサロン・セミナーなど、様々な学びの場を提供します。